2013年01月12日

体罰について

 大阪の一件より運動部における体罰の話題をよく耳にするようになった。この論議において焦点となるのは「体罰」なのか「愛の鞭」なのかということだろう。高等学校や職業訓練校の教壇に立った経験から,自分はこの「愛の鞭」について,「鞭=無知」あるいは「鞭=無恥」または「鞭=無智」と言い換えたい。「愛の鞭」を正当化する指導者は,他の方法により同等の効果を得る手法があることを知らないのである。指導者としてそれを知らないことを恥じなければならない。そして,指導者は常に智恵を絞り,指導法について研究し改善していかなくてはならないのである。

 剣道においても試合会場などで,指導者が子どもたちに対してビンタを張ったり足蹴りにしたり暴言を浴びせるなどの光景を目にすることがある。愚かさを露呈している指導者とそういった指導者を師にもつ子どもたちを哀れに思う。
 剣道はスポーツではなく武道である。厳しさが存在するのは必然である。スポーツと武道の違いは,スポーツは安全確保が前提であり,武道は負けが即死に繋がるというところだ。いつ襲われるかもしれないとすると,寒いとか暑いとか言い訳にならないのである。これが寒稽古や土用稽古の意義である。現代では,即死に繋がるという状況はない。現代の武道では,これらを模倣することで心を鍛える修行として実施されている。

 では,必要とされる厳しさとは何か。白虎隊を育てた會津の藩校,日新館における「ならぬことは,ならぬものなのです」という精神がよく言い表していると思う。暴力や暴言といった厳しさではなく,倫理観に対する譲らない厳しさである。あるいは自分自身に対する自制の厳しさである。
 南錬成会の日常の稽古においても,道場に着いたら,大きな声で挨拶をする。できていなければやり直す。対峙する相手に対して,合わせて礼をする。できていなければやり直す。お話をされている先生の方を向いてお話を聴く。などなど,ならぬことはならぬものなのです,と。指摘されなくとも自らできるようになるまで,根気強く厳しく指導している。こうして身に付いた倫理観や基本技能が土台となり,そこから自発的な技法の探求へと発展していく,そして試行錯誤を繰り返すなかで本当の愉しさに目覚め,自律していくのである。

 勝てば官軍とばかりに勝敗や戦績のみを追及するなら,いつしか本来の人間形成の目的を忘れてしまい,今回のような悲劇を産んでしまうのだろう。これは決して他人事ではない。陥りやすく,また自ら気付きにくく,そして軌道修正することが困難な課題であるから,常に腹に据えておかなければならないことなのだ。

 南錬成会は,剣道・杖道・居合道の三道を通じ,青少年の健全な心身の育成鍛錬に寄与することを目的としている。当会の指導者は,前述の「求められる厳しさ」について心得ている。時には激しい稽古に涙する子もいる。指導者はひとりひとりの子どもたちの精神力と体力を見極めながら,子どもたちと共に汗を流している。

 今日も道場に「ヤーッ!メーンッ!」と大きな声が響き渡っている。ぶつかり合う師弟の飛び散る汗は美しい。

広島市南錬成会 会長 二井谷 仁良
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